「神は乗り越えられる試練しか与えない」は自分にとって

2014-06-07

その由来

「神は乗り越えられる試練しか与えない」。

この言葉は、以下の新約聖書コリント人への第一の手紙第10章13節からきています。

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである。(新約聖書 国際ギデオン協会)

そうは言っても!?

とても勇気づけられる言葉です。

しかし、通常では想像できないほどの過酷な状況置かれた人々にとっては、無責任な言葉のようにも受け止められるようです。

アフリカの内戦や飢饉の中でかろうじて生きている人々。

虐待を受け続けそこから逃れられない人々。

重篤な病気に罹っている人々。

陰惨ないじめに合っている子供たち。

そんな、命を失いかねない状態にある人にとっては、第三者から、ただ頑張れと言われているのに等しいかもしれません。

それがために、この言葉を酷評する人もいるようです。

それに対し、クリスチャンの人々は、神の愛を信じて、ゆだねること、というような受け止め方をされているのかと思います。

どう今の自分に生かすかが重要

私は、クリスチャンではないので、聖書の言葉をどう解釈すべきかといったことは分かりません。

また、この言葉を普遍的に当てはまるような解釈もできません。

ですから、先に挙げたような非常に厳しい環境に置かれた人に対する意味を論じることもできません。

ただ、現在の自分にとってどういう意味を持つかということは考えます。

ささいな問題でも、自分がぶつかった困難に対しどういう姿勢をとれるか。

解決し成長できるという道筋を見出しそこに向かって努力ができるか。

そんな自分の支えにできれば、厳密な解釈は不要と考えています。

要は、どう受け止めるか。

言葉は良く無いですが、それを自分が生きて行くためにどう「利用」できるかです。

生かさないのであれば、無いのと同じです。

でも有効に利用すれば、生きた言葉となります。

家族との関係など様々な壁に当たり、毎日が憂鬱になったりすることがあります。

この言葉によって、決して「よっしゃ」と力強く乗り越えられるわけではありません。

でも、すぐにあきらめたり、逃げだすのではなく、ある時この言葉に後押しされて希望を見出し、一歩踏み出すことはできているような気がします。

もっとも、三歩進んで三歩下がるといった具合ですが。

自分は少し成長してきたから、今の問題にあたっているのだな。

これを乗り越えられると、もっと成長できるかもしれないな。

そんな気持ちにさせてもらっているのがこの言葉です。

いうならば、ささやかな成功(成長)体験を積み重ねています。

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